ライオンズクラブ国際協会335-D地区

2012年3月 アクティビティ報告


1R3Z 姫路白鷺ライオンズクラブ

 

認証50周年記念講演会「小野田寛郎さんの講演」

平成24年3月25日
認証50周年記念講演会「小野田寛郎さんの講演」

姫路白鷺ライオンズクラブ 泉  和慶

 50年目を迎えた姫路白鷺ライオンズクラブ。本年は小学校校庭にビオトープを寄贈して自然と触れ合える空間,季節を感じることの出来る場所を子供たちに提供することをメインの事業とした。その一環として自然塾を主宰する小野田寛郎さんの講演を企画した。日本人がかつてもっていたもの、うしなったもの、とりもどしたいもの、そして、次世代へ送りたいものを小野田さんの目を通して確認したいと考えた。 大正11年3月生まれ本年90歳 ある程度のご年齢の方なら記憶があるだろう。フィリピンのルバング島という淡路島の半分の面積の島で昭和二十年敗戦に終わったにもかかわらず反攻を信じて昭和四十九年まで一人で戦闘状態にあった方。守備隊は200名余りいたが、米軍の侵攻で40名に。投降や戦闘死で3名になり、1名投降。ほぼ27年間は二人で、フィリピン軍と打ち合いになり一人死亡。鈴木紀夫という青年と会うのがきっかけで、任務命令を当時の上官に解かれやっと、投降。当時の報道は、横井さんととならんで衝撃的だった。あれから38年、いまも背筋の延びた日本男子であった。
 昭和16年大東亜戦争勃発 日本は資源を求めて南進、しかし昭和17年には反攻がはじまる。 小野田さんは上海の商事会社で働いていた頃現地召集を受けて、昭和17年、現役兵として歩兵第61連隊(和歌山)に入隊。転属等を経て、陸軍甲種幹部候補学生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され卒業する。中国語や英語が堪能だった事から、昭和19年12月、遊撃戦の指導の任を与えられフィリピンのルバング島に着任。横山静雄中将から「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた。終戦後も、その命に従い戦い続ける。ちょうどそのころ朝鮮戦争、そしてベトナム戦争が続き、フィリピン上空は戦闘機が飛び交い、海上は軍艦が行きかうのを見て日本が反攻してきたと信じた。 帰国後、田中角栄首相の見舞金などをすべて靖国神社に奉納し、ブラジルへ渡る。無一文で何もない原野から牧場を起し成功。それ以来38年が経過している。帰国後すぐに出国したのは見舞金全額靖國神社に寄付したら「軍国主義に荷担する」と言われたからだと語る。日本で子供が親を殺す金属バット事件をきっかけに帰国して自然塾を起し、子供たちに生きる力を教えている。
 日本の伝統は目に見えない自然の力をいつくしみ感謝することが日常の行動の基にあったはず。アメリカでは銃の乱射や残虐な犯罪があったがあんなことは日本ではおこりようがない。と思っていたが、いまはそれが当たり前のように起こる。その伝統文化が崩れてしまったのと符合する。小野田さんは子供たちに自然を通して、生きる目的、生きる力を語る。
 会場は定員320名いっぱいで熱気にあふれていた。質問もたくさん出た。27歳の男性は、小野田さんの世代の役割は難だったのかを訊ねた。かれは、やはり大東亜戦争に触れ、あの戦いは人種差別の撤廃であったと語った。現に沢山の植民地が解放され、国々が独立を勝ち取る。その大きな役割を果たした。
 12歳の小学生は、一番苦しかったことはなんですかと訊ねる。小野田さんは雨降りと答える。雨が降ると体が冷えて眠れず据わったまま眠る。更に、雨は飲み水になる。人間は三日間水を飲まなければ死に到ると説いた。
強靭な精神は目的をしっかり持つこと。常に前を見ることによって育まれる。また、歴史認識についても熱く語った。

 

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